「嗚呼、一年」

驚いた。

 

「週刊 長谷川万大」連載開始から一年が過ぎていた。

 

先月は、傑作選と題して過去四十作の中からボクがもう一度読みたいものを更新した。傑作選とは便利なものだ。選ぶだけでいいのだから。

いやいや、別に、ゴホッ、サボりたかったわけじゃ、ゴホッ、ありませんからね。ゴホッゴホッ。ジュル。

 

ともあれ、まさか一年後もこうして原稿をカタカタやっているとは思わなかった。

 

生きていればなんだかんだお話のネタは落ちているもので、ひとまずの節目を迎えることができた。

わざわざ取り立てて大騒ぎするほどのことでもないが、飽き性のボクが一年続けられたというのは歴史的快挙といってもいい。

ひとつの話題を原稿用紙一枚にするには、例えるならスマホで撮った写真を、ポスターサイズに引き伸ばしていく作業のようなものだ。ただ引き伸ばすだけでは画質が粗くなり、比率もおかしくなる。それをどうにかして、最新の技術を駆使するかのように、広げていかなければならないのだ。

あまり分かりやすい例えではなかったが、別にここは大事なところじゃないからいい。

 

さて、一年前と比べて少しはオトナになっただろうか。

 

毎週毎週、言葉にもみくちゃにされながら文章に向き合ってきたから、きっとこの連載が始まる前より、周囲へのアンテナが敏感になっているだろうと思う。言葉や文章に関しては尚更だ。

 

自分のことはさておき、他人の書いた文章の粗がやたらと目に付くようになった。

「~ですが」をひとつの文章で重複して使っていたり、「意外と」を「以外と」と間違っていたり、挙げだすとキリがない。

どうしてこんな簡単なミスをするんだと読んでいるほうは憤りにも近い感情が芽生えるが、実際に書いてみると見過ごしてしまうことも多い。

 

だからといって、どこでどんな人が見ているか分からないネット上に投稿するものなのだから、決して良いことではない。

 

最近はネットニュースのライターも雑な人が多いようで、誤字脱字は当たり前、同じ文章を続けて二度書いていたりする人もある。今日もどっかの記事に、「熾烈な戦い」を「歯列な戦い」と書いているいい加減な輩がいた。どんな戦いだよ。

ネットニュースに関しては、閲覧数を稼ぐために必死だという話を聞いたことがあるから、記事の投稿は我先にという感じで一刻を争うのであろう。

 

しかしながら、そんな文章を読んでいるとムッとする。

「伝える」ということが仕事ではないのか。まったく。

 

自分のことは棚に上げて偉そうに色々と物申してきたが、ボクにも心当たりがなくもない。

 

先のような杜撰な文章を書いたり、誤字脱字には気を付けているから、さすがにあからさまな間違いはないと思うのだが、過去の投稿を読み返すと、ここはもう少し良い表現できたな、ここおかしい、という部分はある。

 

言葉を連ねることも、歌うことも、演じることも、なんにしても同じことが言えるが、表現に終わりはない。

 

そのときは、それが最高傑作。

 

だけれど、日々の生活を重ねていくうちに、新たな経験をして新たな知識を得て、もう、「そのとき」には戻れない。「そのとき」は常に、今であるということを教えられる。

 

今日は今日、明日は明日、という言葉をよく耳にするが、無駄なく的確にそれを表現している最高峰の言葉だと思う。

 

最高の表現とは、飾らないことだ。