「ぶらこうじ、という男」

2014年3月30日。

初めての大学の登校日。通学バスに乗る為に寮の下駄箱で靴に履き替えていると、後ろから声を掛けられた。その時何を話したかはまったく覚えていないが、軽くてチャラそうで、その上鉄砲のように誰彼構わず話しかけるようなマシンガン男だったというのは、第一印象としてはっきり焼き付いている。

 

それが寮に引っ越して初めて誰かと会話した記念すべき瞬間だったわけで、ヤツが乱打した鉄砲の一発が見事ボクに命中したのだ。

 

それから数日後、音楽部の部室見学でこのマシンガン男と再会した。

こいつはボクのことを忘れていた。

 

この薄情者め。

 

なんて薄情な軽チャラ短期記憶マシンガン野郎なんだ。人のことを撃っておきながら忘れるなんて、とんだ凶悪犯罪者だ。

 

しかしそれからというもの、ちょこちょこボクの部屋を訪ねてくるようになった。

 

「22時に行く!」

 

と言われて素直に待っていても、22時には来ない。

0時を過ぎ、さて寝ようかと支度している頃にドアがコンコン叩かれる。そして何事もなかったかのように、爽やかに登場する。

きっとこの男に、ボクの固定観念というものをことごとく破壊されたような気がする。

実に爽やかなのだ。2時間も待たせておいて。

 

なんなんだこいつは、、 謎は深まるばかりだった。

 

そんな感じで少しずつ仲良くなり、秋になると部屋に来る頻度が増えた。初めは適当な会話だったが、いつしか将来についてや人生観など、本当にあの「軽チャラ短期記憶凶悪犯罪者と話しているのか? 俺は・・」と疑いたくなるような世界が広がっていた。

 

初めのうちは、きっとこの人は、一人で部屋にいると変な気でも起こすのか、もしくは心の病にでも罹っているのではないか、と心の中で必死に問うたものだ。

しかしそれはまったくの誤解だったのである。本当は、ちゃんと自分の考えを持っていて根はものすごく真面目な男だということ。これを言うと本人はたいへん嫌がる。キャラが死ぬんだそうな。

人は見かけや表面だけで判断してはいけない。とても分かりやすい例だ。腹を割って話さないとその人の奥の、もう一人の「その人」には会えないのだ。

 

そんな青春の語らいの中で、今でも心に残っているヤツの言葉がある。

 

「奇跡は起こるものじゃなくて、思うものだ。」

 

衝撃だった。言われてみれば確かにそうだと思う。起きましたよ、はい、いま奇跡起きましたよ、とは誰も教えてはくれないし、どんなメカニズムで起こるのかなんて分からない。そもそも曖昧すぎる言葉なのだ。

だから、「奇跡が起こった」と神がかりのような言い方で片付けてしまう。

奇跡とは、その場にいた者どうしの喜びや苦しみ、その他感情諸々が一つになって起きる集団錯覚みたいなものではないか。分かっているようで分かっていないこと。それを改めて思い知らされた。

 

そんな名言をボクに刻み込んだヤツとはますます仲良くなり、一緒にラジオ番組まで始めた。

 

ボクは常々言っているのだが、ヤツとは住む世界がまったく違う。ヤツはスポーツマンでイケイケ、ボクはインドア派で地味。対照的な二人だからこそ、意図しない化学反応が起きて馬が合ったのだろう。

 

さんざん好き勝手に書いてきたが、言うまでもなくボクは尊敬しているし、最高の仲間だと思っている。

とはいえ、だいぶ前に貸したカポタストやボールペンが未だに返ってこないのはいただけない。早く返さんか。