「詞と物語」

ある映画監督さんとご一緒することになった。

 

それは、あるプロジェクトで、ある動画を制作することになったからだ。

これだけ“ある”を駆使すると何ともいやらしい文章になる。

漢字で書くと“或る”。

たまに“域る”とか、“惑る”とか書いてる人がいて鼻で笑ったりする。

 

そんなことはどうでもいい。

 

そのプロジェクトでは、ボクが脚本を書き、演者を集め、劇中の音楽を作り、歌い、しまいには監督まで務めるという一世一代のプロジェクトなのだ。

これほどマルチな大学生がどこにいようか。

 

とはいえ、ボクは素人だ。

 

小学生の頃、ジャッキー・チェンの映画にドハマリし、役者・脚本・アクション・演出すべてをこなせる俳優に憧れて、友達をかき集めて無理矢理丸め込み、何度か撮影に挑んだことはある。しかし技術的な面で挫折した。つまりはそれくらいのレベルなのだ。

 

だから映像の世界と無縁だったわけではない。今もまだ、一作も完成させることができなかった悔しさが燃え残っている。でも、いつの間にかボクは音楽に目覚めてコッチに来ちゃったもんだから、また撮れるチャンスがあればいいな、くらいにまで薄れていた。

 

チャンスは巡ってくるもんだ。心のどこかで想っていれば、やがてそれはトコトコやって来る。

振り返るとボクはそんなことが多い気がする。なんとなく想っていたことが、気付いたら実現している怪奇チックな謎の現象。

別に健忘症とかでその過程を覚えていないというわけではない。

お導き、とでも言うのだろうか。

 

そんなわけで、ある監督さんとご一緒することになったのである。

 

ボクの脚本を見てもらった時、「本、好きでしょ? 表現が小説っぽいね。」と言われて驚いた。

と言うのも下手の横好きというか、詞ならともかく実はこういう文章もそんなに得意なほうではないから、自信がなかった。まして小説なんて、一冊読み終えるのに数ヶ月を要することもあるから、進んで読むことはあまりない。図書館でバイトしてるくせにまともに本など読んでやしませんぜ! あ、これはまずい。

でも本は嫌いではない。暇があると本屋に足を傾け、散々うろついた挙句、何も買わずに出て行くことが多い。昨日もそうだった。なるほど。分かったぞ。もしかすると本ではなく、本のある空間そのものが好きなのかもしれない。図書館でバイトするのも頷ける。

 

監督の言葉は物凄くうれしかった。言葉に携わる身として、なんだか報われた気がした。

 

ふつう脚本というものは、小説みたいに情景描写を書いたりしてはいけないらしい。

監督はそれを面白がってくれたから良かったのだが。

 

例えば、夕暮れの雲を映し出す場面なら、

『オレンジの影をまとった雲が、沈んでゆく太陽を追いかけている』

なんて言い回しをしたくなる。書いていてなんとなくテンションも上がってくるものだ。

 

しかしそんなこと書いた日にゃあ、「分かりづらい! 帰れ!」 と突っぱねられ相手にされないらしい。

脚本というのは所謂、骨組みみたいなものだから、ごくシンプルでいい。何を言いたいのか、表現したいのかが分かればいいのだ。

だからこの場合、脚本には、

『夕方の空。』

と書けばいいことになる。そのままじゃないか。

なんだか味気ないなあ、と思ってしまうボクはやっぱり”詞人”なのである。